475年の百済滅亡までの時系列(整理)
西暦475年、百済の蓋鹵王(がいろおう)は、国都・漢城を高句麗の軍に包囲されました。
このとき、蓋鹵王が息子の文周王子に語りかけた言葉が、『三国史記』百済本紀に記録されています。
『三国史記』百済本紀・蓋鹵王21年
「予は愚かで人を見る目がなく、姦人の言葉を信用して今日の状況を招いてしまった。民は傷つき、兵は弱まり、国家の危機に際して予のために戦ってくれる者などいようはずがない。予は社稷とともに命運を共にしようと思うが、そなたはここで死んでも無益である。どうか難を避けて国王の系譜を絶やさぬようにしてもらいたい。」
紫色の部分だけに注目すると、蓋鹵王は佞人(ねいじん)に騙されて滅亡したようにも見受けられます。
この佞人を送り込んだのは、高句麗の長寿王でした。高句麗は百済を滅ぼすまでに、多額の資金を投入して佞人を育成し、百済へと送り込み、蓋鹵王を篭絡したのです。
長寿王がそこまでして百済の滅亡を企てた背景には、蓋鹵王が北魏に働きかけた策謀がありました。
今回は、その蓋鹵王の策謀がいかにして高句麗の敵意を招き、百済滅亡へとつながったのかについて、解説していきます。
高句麗側の事情について
高句麗は438年、西に隣接する北燕(現在の中国・遼寧省西部)を吸収しました。
北燕は、後燕の将軍だった馮跋(ふうばつ)によって407年に建国されました。馮跋がもともと所属していた後燕は、前燕の旧皇族である慕容垂(ぼようすい)によって建てられた国です。燕という国家は、前燕の太祖・慕容皝(ぼようこう)の時代が最盛期でした。

慕容皝には優れた軍事的才能があり、一時は華北を統一する勢いがありましたが、彼の死後、前燕は内紛によって崩壊します。この内紛の中で、後に後燕を建てることになる慕容垂は、敵対していた前秦へと亡命しました。
慕容垂は前秦の第3代皇帝・苻堅(ふけん)に仕え、苻堅の華北統一に貢献します。やがて苻堅は中国全土の統一を目指し、江南を支配していた東晋との決戦――淝水の戦い――に臨みましたが、敗北を喫しました。
その後、慕容垂は前秦から離反して後燕を建国しますが、かつて華北を席巻した前燕の勢いは戻らず、彼の死後は、いわば“お家芸”ともいえる皇族間の内紛が再び起こりました。そして407年、将軍・馮跋が皇帝・慕容煕(ぼようき)を弑殺(しいさつ)したことで、後燕は滅亡します。
馮跋は新たに慕容雲(ぼよううん)を擁立して北燕を建国しましたが、2年後の409年、慕容雲がクーデターによって殺害され、馮跋が第2代皇帝として即位しました。

しかし、慕容氏から馮氏へと政権が移っても、内紛は絶えることがありませんでした。430年、馮跋の弟である馮弘は、皇太子の馮翼(ふうよく)をはじめ、兄・馮跋の子どもたちをすべて殺害して即位し、自身と寵姫との間に生まれた馮王仁を皇太子に立てました。
左図:430年の東アジア
馮王仁の弟にあたる馮郎は、暗殺を恐れて北魏へと亡命します。もともと北魏は北燕への侵攻の機会をうかがっていたため、これを好機と捉え、ある策を講じました。北魏は、北燕の皇帝・馮弘に対して妃を差し出すよう要求します。馮弘にはその要求を拒むだけの国力がなかったため、やむなく応じました。しかし北魏はその隙を突き、軍をもって北燕へ侵攻し、ついに436年、北燕を滅ぼしてしまいました。
国を追われた馮弘は高句麗へと逃れ、高句麗の長寿王の庇護を受けました。しかし馮弘が南朝の宋へ亡命しようとしたため、438年、長寿王は馮弘をはじめ馮一族を殺害し、あわせて北燕の資産・兵士・民衆を接収しました。
こうして高句麗は北燕を吸収し、勢力を拡大していくのですが、ここで思わぬ誤算が生じました。実は、馮弘が北魏に差し出した娘が北魏の太武帝の妃となっていたのです。この妃は北魏の宮廷内で馮一族の立場を強めていき、やがて亡命していた馮郎の娘が文成帝(拓跋濬〔たくばつしゅん〕)の妃となり、北魏の後宮は馮一族の影響下に置かれるようになります。

465年、北魏の文成帝が崩御し、その子である献文帝(拓跋弘)が即位しました。文成帝の妃だった馮郎の娘は皇太后となり、絶大な権力を手にします。この皇太后は後に「文明太后」として知られるようになります。
文明太后は466年、献文帝のために高句麗に后を差し出すよう求めました。これは、かつて北魏が北燕を滅ぼす際に用いたのと同じ手口でした。
左図:4世紀中頃の東アジア勢力図
高句麗の長寿王もまた、かつての北燕と同様にこの要求を受け入れようとしましたが、家臣からの強い諫言があったと言われています。
以下は『三国史記』よりこの逸話について引用します。
『三国史記』高句麗本紀・長寿王 54年 (466年)
長寿王の五十四年(466年)春三月、高句麗は魏に遣使し朝貢した。
魏の文明太后は顕祖(献文帝)の後宮が整っていなかったので、高句麗王に王女を差し出すように教書を送った。
王はこの命令を受諾し「娘はすでに嫁いでいるので、弟の娘を差し出します」と回答した。
文明太后はそれを許可し、安楽王・真と尚書・李敷を高句麗に派遣し、王女を迎えさせた。彼らが国境に近づいたところで、ある人が高句麗王にこう言った。
「魏はかつて燕と婚姻していましたが、すぐに討伐しました。それは使者が燕の地形をよく調べていたからです。『殷鑑遠からず』と言うように、燕の滅亡は高句麗と無縁ではないのです。どうぞ適当に言い繕ってご辞退なさいませ」
そこで王は娘が死んだと上表した。魏は高句麗王の嘘を疑い、再び仮散騎常侍・程駿を派遣して厳責した。
「もし本当に娘が死んだのであれば、別の王女を選ぶように」
王はこう回答した。
「もし天子がそれがしの過ちを許してくださるのであれば、謹んで詔に従いましょう」
顕祖がたまたま崩御したので、この儀は取りやめとなった。
赤字で示した部分は、471年に北魏で発生したクーデターを指しています。
北魏の献文帝は、17歳という若さで文明太后によって退位させられました(その後、毒殺されたとも言われています)。代わって即位したのが孝文帝(拓跋宏)です。この時、孝文帝はまだ4歳だったため、文明太后が北魏の実権を完全に握ることになりました。
文明太后の祖父は、高句麗の長寿王によって殺害された馮弘です。普通に考えれば、文明太后が高句麗に対して強い恨みを抱いていたとしても不思議ではありません。
そこに目を付けたのが、高句麗から繰り返し侵攻を受け、苦しんでいた百済の蓋鹵王でした。
百済・蓋鹵王が高句麗・長寿王に恨まれた理由
472年、百済・蓋鹵王は北魏に遣使し、高句麗討伐を要請しました。この時の上表文を 『三国史記』百済本紀より引用します。
『三国史記』百済本紀・蓋鹵王 18年 (472年)
蓋鹵王18年(472年)、蓋鹵王は北魏に遣使し、次のように上表した。
「臣の国は東のはてにあり、高句麗という豺狼が道を塞いでいるため、王統は代々続いておりますが魏国の藩屏としての役割を果たせずにいます。雲のように聳える宮殿の高台を遠くに仰ぎ見ながら、魏国への想いを果てしなく募らせても涼風は応じてくれません。皇帝陛下は天命に従い歩まれており、お慕いする気持ちを止めることができません。(略)
臣と高句麗の出自は同じ扶余です。先代の時まで旧交を温めていましたが、その祖・釗(故国原王の諱)が簡単に友誼を破り大軍で押し寄せて臣の国境を蹂躙してきました。臣の祖・須(近肖古王)が雷電のように迎撃し、矢石を交え、釗を斬り梟首にすることができました。それ以来、高句麗は南下しなくなりましたが、燕国の馮氏の命運が尽き、その残党の鼠が高句麗の傘下に入ると、この醜類は強盛となり、わが国は逼迫に喘ぐようになりました。怨恨は次なる戦禍を引きおこし、既に三十回以上も会戦を重ね、我が国は財力が枯渇し国運は衰退の一途を辿っております。天子の慈悲と憐憫の気持ちが遠国にまで広げるおつもりでしたら、どうか一人の将軍をお遣わしになり、臣の国を救援していただきたくお願いします。願いが叶いましたら、田舎者ではありますが娘を天子にお仕えさせて後宮の掃除をさせます。臣の子弟も天子のために厩で馬飼いとして働かせます。僅かな領地、臣民を私有せず、天子に供出します。」
またこのようにも言った。
「今、高句麗の璉(長寿王の諱)には罪があります。璉にとって国は魚肉なのでしょう。大臣、豪族をまるで魚肉を食べるように殺戮しております。その罪悪は溢れ、庶民の心は離反しています。高句麗滅亡は間近であり、手を拱いている場合ではありません。かつての燕の馮族の士卒や馬には主人を慕う「鳥畜の恋」があります。それに「狐死首丘」という諺があるように馮族の士卒には生まれ育った楽浪諸郡に帰還したいという想いもありましょう。
天子が一撃のために征伐を挙行すれば戦うまでもなく、臣は愚かですが志の赴くまま力を尽くします。兵を率い、風に靡くように呼応しましょう。それに高句麗の不義、叛逆は一つではありません。国外では後漢の孝武帝の覇業を阻んだ隗囂のように魏国に抵抗し、国内では猪突のように凶行を重ねています。それに南の劉氏と通じ、北は蠕蠕(モンゴルの遊牧民族。柔然)と密約を結んでおります。彼らとの関係は「唇歯」の諺のように密接な関係にあり、魏国の覇業を妨害しようと策謀を練っております。」
蓋鹵王の動きは、すぐに高句麗の長寿王に察知されました。長寿王は、北魏の使者が百済へ向かうのを阻止し、妨害したと伝えられています(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王18年)。
その後も蓋鹵王は北魏への使節派遣を続けましたが、北魏がなかなか動こうとしなかったため、最終的には遣使を取りやめたと記されています(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王18年)。
このように北魏と接触を図ろうとする蓋鹵王に対し、長寿王は深い憎しみを抱き、ついには百済を滅ぼす決意を固めたのです。
以下に『三国史記』からの引用を記します。
『三国史記』百済本紀・蓋鹵王21年 (475年)
高句麗・長寿王は百済に対して謀略工作をするため、かの地に間諜する人材を求めていると、道琳という僧侶が募集に応じた。
「愚僧は道を極められませんでしたが、国恩に報いる気持ちはあります。どうか大王には臣を不肖者として扱わず、うまく利用してください。そうすれば決して君命を辱めず、大望を成就して差し上げましょう」
王は喜び、密かに百済を騙すべく画策した。
道琳は罪を得て脱走したかのように振る舞い、百済に亡命した。百済王・近蓋婁(蓋鹵王の諱)が博打を好んでいたので、道琳は王門でこう言った。
「臣は若い頃から碁を学んでおり、腕に自信があります。どうか左右のものにお取り次ぎ願いたい」
王が道琳を招いて碁を打ってみると果たして名手であった。そこで上客として遇し、昵懇の間柄となり、出会うのが遅すぎたと嘆いた。
道琳が近侍している時、落ち着いた口調でこう言った。(略)
「大王の国は四方を山丘河海に囲まれ、天嶮に恵まれています。これは人為によるものではありません。四隣の国はどこも攻め入ろうと考えないし、ただお仕えしたいと願っておりましょう。このような天嶮と富有をお持ちの王は人々の耳目を驚かせることができるのに、城郭や王宮は修理されていません。先王の遺骨は露地に晒され、百姓の家屋は河に流され破壊されてきました。それがしは密かに大王のために惜しみます。」
王はこう言った。
「その通りだ。その通りにしよう」
そこで国人に発令して泥土を蒸して築城し、そこに宮室、楼閣、台榭を作った。いずれも壮麗であった。また大石を郁里河(漢江)から取り寄せて石槨を作り、そこに父王の骨を葬った。河の沿岸を蛇城(風納里土城。ソウル特別市松坡区)の東から崇山(黔丹山。京畿道・河南市)の北にまで樹木で堰き止めた。このため国庫は枯渇し、人民は困窮し国家の礎石は累卵のように危うくなった。
道琳はここまで見届けると逃げて帰国し、長寿王にこのことを報告した。
道琳の言葉に耳を傾けた蓋鹵王は、無駄な投資で国庫を空にしてしまい、道琳の失踪によって騙されていたことに気づきましたが、すでに時は遅く、475年に高句麗の長寿王が3万の軍勢を率いて百済に進軍しました。蓋鹵王は文周王子を新羅に派遣して救援を要請しましたが、援軍が到着する前に百済の王都・漢城は陥落し、蓋鹵王はすでに殺されていたと伝えられています(『三国史記』新羅本紀・慈悲麻立干17年)。
この事件は『日本書紀』にも記述されています。以下に引用します。
『日本書紀』巻十四・雄略天皇 20年
『百済記』にこう記載されている。
「蓋鹵王は乙卯年(475年)の冬、狛の大軍が来て、大城を七日七夜にわたって攻撃した。王城は陥落し、ついに社稷を失ってしまった。
国王、及び大后、王子らは全員敵の手に掛かり、殺された。」
『百済記』によれば、王族は全員殺されたかのように記されていますが、実際は若干名、生き残りがいたようです。
『日本書紀』巻十四・雄略天皇 20年
雄略二十年の冬、高麗王は大軍で百済を討伐した。そのとき少しばかりの生存者が残っており、倉庫の下に集まっていた。兵糧は底を突いており、悲しくてただ泣くだけだった。
この時、高麗の諸将が王にこう言った。
「百済の内心は普通の人と異なります。われらはいつも彼らを見ると怒りで自制できなくなります。それは蔓が生えるのと同じようで、恐ろしいとさえ思います。どうか始末させてください」
王は言った。
「それはならぬ。予は百済が日本の官家となってから随分と時が経つと聞く。またその王は天皇に仕えており、他の国もそのことは知っている」
こう言って制止した。
こういった経緯で百済は475年に滅亡しました。
まとめ
- 北魏は北燕・馮弘に圧力をかけて馮弘の娘を妃に迎え入れた。しかしこれは罠であり,北魏は北燕の油断をついて滅ぼした。
- 馮弘は隣国の高句麗に亡命したが,亡命先で高句麗・長寿王に殺害された。
- 馮弘の娘は北魏・太武帝の妃となり,すでに北魏に亡命していた馮郎の娘(文明太后)を北魏・文成帝の妃に迎え入れて北魏の後宮を支配した。
- 文成帝の崩御後,献文帝が即位したが,文明太后はすぐに退位させ,孝文帝を即位させた。孝文帝は幼かったため,文明太后が北魏の実権を掌握した。
- 文明太后の祖父は,かつて長寿王によって殺害された馮弘である。この事実に目を付けた百済・蓋鹵王は何度も北魏に高句麗討伐を要求したが実現しなかった。長寿王は蓋鹵王の蠢動を疎ましく思い,475年に百済を滅ぼした。
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画像:stable diffusion(model:Protogen x3.4)より生成
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