対ジェホヴィ戦争(B.C.3680~B.C.1550)における中国について
対ジェホヴィ戦争の開戦時期については、別記事「【OAHSPE考察7-2】対ジェホヴィ戦争の開戦時期の考察(エジプト第1王朝~第3王朝より)」にて詳しく考察しておりますので、そちらをご参照ください。
ここでは、神アヌハサジが創造主ジェホヴィに反旗を翻した時期について触れたいと思います。アヌハサジが自らを「デユス」と名乗り、創造主に対して反乱を起こしたのは、紀元前3680年頃であったと推定されます。
その後、デユスは反乱を指導してから約1,000年を経て地獄へと堕ちます。このため、OAHSPEではこの戦いを別名「1,000年戦争」とも呼んでいます。ただし、実際の戦争は1,000年で終結したわけではありません。デユスの没落後は、彼の部下であったオシリス、ティイン、スドガがそれぞれエジプト・中国・インドに拠点を築き、戦争を継続していきました。

この彼らの反乱の時期についても、先の開戦時期と同様に、紀元前2890年頃と見られています。そして、この長きにわたる戦争に終止符が打たれるのは、「ボン弧の夜明け」と呼ばれる紀元前1500年頃のこととなります。
この紀元前1500年頃は、中国史においては殷の時代に該当します。殷の湯王(とうおう)は、それ以前の夏王朝最後の桀王(けつおう)が暴虐であったため、これを討ち滅ぼして殷王朝を興したと伝えられています(『史記』夏本紀などによる)。
殷の湯王が夏を滅ぼした時期と、ボンの夜明けが重なることから、夏王朝は偽神ティインによって興された国家であった可能性が高いと考えられます。
そのように考える根拠について、以下でご説明します。
- 『史記』の「三皇本紀」には、次のように記されています。
「開闢(かいびゃく)のときより獲麟(かくりん)に至るまで、およそ三百二十七万六千歳であり、これを十紀に分ける」(『史記』三皇本紀より、参考文献に準拠して引用)
ここでいう「開闢」とは、天地の開け初め、すなわち天地創造を意味しております。
ただし、この天地開闢に関する記述は、後世の偽神たちによる創作と考えられております。
この「三皇本紀」の後には「五帝本紀」が続き、そこでは黄帝や帝堯(ぎょう)、舜といった人物が登場します。そして、帝舜が禅譲(ぜんじょう:位を譲ること)した相手こそが、夏王朝の始祖である禹(う)であります。
このように、天地開闢を行った神の血統を継ぐという構図は、日本神話にも見られるものと類似しています。そして、偽神ティインが禹王を支援し、夏王朝を興したと考えられます。 - 落合淳思氏の著書『殷――中国史最古の王朝』によりますと、
「当時の王朝は、現在の中国・河南省偃師市の二里頭に置かれており、約四平方キロメートルの範囲から住居跡や青銅器の工房、そして大小二つの宮殿が発見されています」(同書第1章「殷王朝の前期・中期」より)
と記されています。この遺跡群は「二里頭文化」と呼ばれており、紀元前2000年から紀元前1600年頃にかけての時代と推定されています(同書より)。
この時期は、OAHSPEにおいては「対ジェホッヴィ戦争」の時代に相当します。さらに、紀元前2000年という年代は、偽神ティインがデユスに対して反旗を翻した後にあたることから、二里頭文化の王都は、ティインによって築かれた可能性が高いと考えられます。 - 夏王朝は、最後の王である桀(けつ)王が暴虐な統治を行ったため、殷(いん)の湯(とう)王によって討伐され、新たに殷王朝が興されたと伝えられています(『史記』殷本紀ほかによる)。
殷の時代は、紀元前1600年頃から始まったとされており、落合淳思氏の著書『殷――中国史最古の王朝』によりますと、
「殷代の前期は、二里岡文化(紀元前16〜前14世紀)に区分され、現在の河南省鄭州市二里岡に都が置かれた」(同書第1章「殷王朝の前期・中期」より)
と述べられています。
この二里岡文化が殷王朝に関連する遺跡であるとすれば、紀元前1600年という年代は、OAHSPEにおける「ボンの夜明け」以後の時期に該当します。
すなわち、夏の桀王は、大天使リカの降臨によってもたらされた「ボンの夜明け」によって滅亡の道をたどり、新たに殷の湯王を中心とした勢力が台頭し、二里岡文化を創出したと考えられるのです。
夏王朝の時代は、OAHSPEに記されている偽神ティインの反旗の時期と一致しております。また、この時代における神話の創作についてもOAHSPEの記述と整合していることから、夏という国家そのものは実在したと考えられます。
ただし、夏の滅亡が暴君である桀王の専横によるものだったという通説に対しては異なる見方も可能です。すなわち、夏という国はもともと、偽神ティインによる暴力的な思想を背景にして興った国家であり、必然的に「ボンの夜明け」(大天使リカの降臨)と共に、その存在が終焉を迎えたのではないかと考えられます。
実際には、周辺諸勢力の反乱や内外の圧力によって滅亡に至ったと推測されますが、その根本には、霊的・思想的な崩壊があったとも言えるでしょう。
まとめ
今回ご紹介いたしました記事は、対ジェホヴィ戦争の時代における中国の動向について、偽神ティインが興した国が「夏」と呼ばれる国家であるという考察を示したものです。
夏国は、巨大な遺跡の発見をきっかけに、伝説上の存在から実在した国家へと認識が変わりつつありますが、OAHSPEの視点も踏まえて検証を進めることで、その実態がより明らかになるのではないかと考えています。
このことに関連して、夏国誕生以前に活動していた伝道師ポーの軌跡が問題となります。偽神ティインは、ポーの足跡を完全に消し去り、新たな国家を興したと言われております。これが、偽神オシリスとの大きな違いであり、古代エジプト王朝の歴史が現代にまで伝わる一方で、古代インドや古代中国の歴史が途絶えてしまった原因の一つであると考えられます。
私個人といたしましては、ポーの軌跡を復元したいという思いを抱いています。二里頭文化以前には、中原の竜山文化、山東の竜山文化、良渚文化などが存在したとされていますので、もしかするとそこにポーの痕跡が残されているのではないかと期待しています。
参考文献, 使用画像
図書 | 著者 | 出版社 |
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『史記 上』平凡社版 中国の古典シリーズ1 | 司馬遷 著 野口定男、近藤光男、頼惟勤、吉田光邦訳 | 平凡社 |
殷–中国史最古の王朝 | 落合 淳思 | 中公新書 |
OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.” | John B. Newbrough | OAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION |
画像:stable diffusion(model:protogen x3.4)より生成
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