反正天皇=倭王珍説を検証する次なる一歩
5世紀、倭国と呼ばれていた時代に、倭王(讃・珍・済・興・武)の5人が南朝宋に使者を送りました。どの倭王がいつ遣使したのかについては、中国の歴史書『宋書』に記録されています(下表参照)。
遣使時期 | 西暦(年) | 『宋書』に記された倭王 | 『日本書紀』に記された天皇 |
---|---|---|---|
永初2年 | 421 | 倭王讃 | 第19代・允恭天皇 |
元嘉2年 | 425 | 倭王讃 | 同上 |
元嘉7年 | 430 | 倭王 | 同上 |
元嘉15年 | 438 | 倭王珍 | 同上 |
元嘉20年 | 443 | 倭王済 | 同上 |
元嘉28年 | 451 | 倭王済 | 同上 |
大明6年 | 462 | 倭王興 | 第21代・雄略天皇 |
昇明2年 | 478 | 倭王武 | 同上 |
『宋書』に記載されている倭王の記事の時期は、『日本書紀』における第19代・允恭天皇から第21代・雄略天皇の治世と重なります。両史料の年代にはずれがありますが、信憑性が高いのは『宋書』のほうだと考えられます。たとえば『日本書紀』では允恭天皇の在位年数が42年、父・仁徳天皇の在位年数が87年とされていますが、この時代において長寿で知られた高句麗の長寿王でさえ在位79年であったことを踏まえると、これはやや現実的ではありません。
もっとも、『日本書紀』に記載されている天皇の存在が虚構だというわけではありません。『宋書』の記事と『日本書紀』の記述とが矛盾なく符合することで、両者の信憑性が高まると考えられます。
本サイトでは、特に倭王済が2回目の遣使において「都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」という称号を授かった背景に着目しています。この称号は、以前の倭王・珍も(加羅ではなく百済に置き換えて)自称していたものです。
通常であれば、このような叙任は何らかの功績を背景とするはずですが、『日本書紀』の允恭紀にはそうした記述がありません。そこで朝鮮半島の三国時代を記す『三国史記』を調べてみると、450年に高句麗と新羅の断交を招いた事件が発生していたことが分かりました(筆者はこの事件を「高句麗辺将殺害事件」と呼んでいます)。
『三国史記』ではこの事件の後に両国が和睦したとありますが、『日本書紀』雄略紀8年の記事には、両国が不倶戴天の敵となったと記されています。そこでは、高句麗の侵攻を受けた新羅が任那の支援を受けて危機を脱したとあります。
つまり倭王済は、この事件において高句麗の侵攻を退けた功績を評価され、2回目の遣使によって、従来は自称に過ぎなかった六国諸軍事の称号を南朝宋から正式に認められたと考えられます。
この「高句麗辺将殺害事件」は、倭の五王の実像を探る上で重要な手がかりです。この事件は、たとえば倭王興が世子の立場で462年に南朝に遣使した理由や、彼の前に即位できなかった天皇(木梨軽皇子)の存在を検討する材料にもなります。(倭王興が世子の立場で462年に南朝宋に遣使した理由について)
こうした考察から、多くの研究者が試みてきた「倭の五王」と『日本書紀』に登場する天皇との照合作業は、必ずしも的外れではなかったことが確認できます。
そこで今後は、倭王済(允恭天皇)からさらに遡って、前代の倭王・珍(第18代反正天皇に比定)について考察を進めていきたいと思います。
『宋書』と『三国史記』に見る倭の外交と軍事行動
倭王珍(反正天皇)は438年に南朝宋に遣使しています。
讃が死に、弟の珍が即位し、使持節、都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王を自称した。珍が上表し除授を願い出たので、文帝は詔勅を下し、安東将軍・倭国王に叙任した。
『宋書』巻九十七・夷蛮伝
倭王珍は,倭王讃の弟であることが遣使記事から読み取れます。さらに倭王珍は六国諸軍事(倭,百済,新羅,任那,秦韓,慕韓)を自称したと記されています。倭国王までは南朝宋も認めているので,この時期,倭国にはそれだけの力がなかった可能性があります。
ここで『宋書』文帝紀の元嘉7年(430)に記載された次の記事について考察します。
この月,倭国王は遣使し,方物を献ず。
『宋書』巻5 文帝紀 元嘉7年1月
まず、倭王讃についてですが、『宋書』では一貫して「倭讃」と表記されており、「王」という称号は省かれています。
一方、倭王珍は『宋書』夷蛮伝(いばんでん/倭国伝)によれば、最初は「倭国王」を自称していましたが、その後、宋の文帝により正式に認められたと記されています。つまり、元嘉7年(430年)の遣使記録は、倭王珍によるものだと考えられます。
倭王珍は、その翌年(431年)に新羅への侵攻を開始します(『三国史記』新羅本紀・訥祇麻立干15年4月)。しかし、このときの侵攻は成果が出せず、倭軍は撤退しました。
438年には、再び南宋に使者を送り、倭王珍は「安東将軍」に任命されます。このとき、倭隋を含む13人の人物が将軍として推挙されています。
倭隋については、本サイトでは「雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)」、すなわち後の允恭天皇(倭王済)であると推定しています。倭隋という名に「倭」の姓がついていることからも、彼は皇族であったと考えられます(倭讃と同様です)。
この時代、倭王珍の政権で群臣の筆頭にいたのが、まさにこの王弟・雄朝津間稚子宿禰でした。倭王珍は自らの弟を含め、主要な群臣を将軍として推薦したわけです。
こうして、南宋の権威を背景に、再び新羅への侵攻に取り組みます。
『三国史記』によると、その後も新羅への侵攻記事が440年に2件記録されています(同年6月)。このとき倭軍は、新羅の南部と東部にそれぞれ侵攻したようです。
しかし結果として、この一連の侵攻でも決定的な成果を上げることはできず、倭王珍(反正天皇とされる人物)は、442年に崩御しました。
南朝宋との外交から見た倭王珍の在位年
倭王珍(反正天皇)が即位したのは、西暦429年だったと考えられます。その理由は、翌430年に倭王珍が南朝宋に上表しており、当時の倭と南宋との往復には約1年かかっていたためです。(倭王済が451年に2回目の遣使を行った理由について)
倭王珍が崩御したのは、倭王済が即位した442年と見なされます。
したがって、倭王珍の在位期間は429年から442年までの14年間であり、比較的長期にわたる政権だったと言えるでしょう。
反正天皇から允恭天皇へ──クーデターの痕跡を探る
反正天皇について、『日本書紀』反正紀には特に大きな事績は記されていません。しかし実際には、南朝宋への二度にわたる遣使や、新羅へのたび重なる侵攻など、積極的な対外政策を行っていたと考えられます。
ところが、反正天皇の墳墓とされる田出井山古墳は、仁徳天皇陵(大仙古墳)をはじめとする百舌鳥古墳群の中にあるものの、履中天皇の百舌鳥耳原南陵と比べても規模がかなり小さいのが実情です。
また、反正天皇(倭王珍)の崩御後に即位したのは、王弟である雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)でした。彼は履中天皇や反正天皇の皇子たちが存命であったにもかかわらず、群臣の一人としての身分から皇位についたことになり、これは極めて異例の事態です。
本サイトでは、雄朝津間稚子宿禰(倭王済、のちの允恭天皇)によるクーデターがあったのではないかと推測しています。その理由の一つは、允恭天皇の子孫たち(木梨軽皇子・安康天皇・雄略天皇)が、以降の皇統を継承していった事実にあります。
宿禰という立場でありながら、他の皇孫たちを差し置いて、自身の子どもたちに皇位を継がせることができたのは、明らかに群臣の協力があってこそ成し得たことでしょう。
允恭天皇の出自については、別の考察で取り上げる予定ですが、ここでは、反正天皇の崩御後に発生したと考えられるクーデターによって、反正天皇の皇孫が命を落とし、さらに履中天皇の皇孫たちも皇統から外されたと見ています。これは、允恭天皇自身が一度皇統から外され、宿禰という立場に降格されたことに対する意趣返しであったとも解釈できます。
このようにして、允恭天皇(倭王済)は、自身の子どもたちに皇統を継承させる体制を整えることに成功しました。
なお、クーデターにより命を落としたと考えられる反正天皇の皇孫には、1人の男子と3人の女子がいたとされています。
大宅臣の祖・木事の娘である津野媛を后とし、香火姫皇女と円皇女をもうけました。また、その妹の弟媛も后となり、財皇女と高部皇子を出産しています。
しかし、この4人の皇女・皇子については後世の記録に子孫の存在が確認されておらず、この代で血統は断絶したものと考えられます。

総論
- 倭王珍は第18代・反正天皇であり,在位期間は429年~442年。
- 430年,南宋に遣使。倭国王を南宋・文帝に追認される。
- 431年,新羅への侵攻を開始。
- 438年,南朝宋に遣使。(この時,六国諸軍事や安東将軍を自称)
南宋文帝より安東将軍に除授されるものの,六国諸軍事は見送られる。 - 440年,新羅侵攻。
新羅侵攻は倭王済の時代も継続。
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